セコ釣り批判は大間違いである
バス釣りにしても、エリアトラウトなどの釣りにしても、小型のルアーを使った釣りなど特定の釣法を指して「セコ釣り」と呼び、それを行うアングラーを批判する者たちが一定数いる。
ただ結論から述べておくと、世間で見られるセコ釣り批判は、批判する側が間違っている場合がほとんどだ。
Xスティックはセコ釣りではない
例えばエリアトラウトにおいて、Xスティックやセニョールトルネードを使った釣りを「セコ釣り」として批判する者がいる。これも間違いだ。
Xスティックやセニョールトルネードは、トラウト類が持つ「非常に強い好奇心」を刺激することに特化したルアーというだけである。スプーンやミノーがウォブリング等でトラウトの狩猟本能を刺激する事と何も変わらない。
つまり、Xスティック等を「セコ釣り」と批判する者は、単にルアーや魚の事に詳しくないだけであり、批判する側の認識が間違っている典型的な例である。
小型ルアーを否定する事は多くの釣法を否定する事になる
同じくエリアトラウトにおいて、「豆系」と呼ばれるような小型のルアーを使った釣りをセコ釣りだと批判する者たちがいる。これも間違いだ。
エリアトラウトにはレギュレーションというルールがあり、そのルールによって使用が禁止されているサイズのルアーである場合は使ってはいけない。これは当然だ。しかしこれは基本的に「魚によるルアーの誤飲」を防ぐためのルールであって、「セコいから」ではない。
そもそもトラウト類は、自然界では小型の虫なども捕食しているため、本来食べているものに近いサイズ感のルアーを使うことは、セコ釣りでも何でもない。
それを「セコ釣り」と言ってしまうと、魚が捕食している餌のサイズに合わせてルアーのサイズを選択するマッチ・ザ・ベイトも、餌に似せたルアーを使うこともすべて「セコ釣り」という事になる。
つまり小型ルアーを使うことを「セコ釣り」として非難することは、ほとんどのルアーや釣り方を否定しているのと同じという事になる。
結局はこの手の批判も、批判する側の認識の甘さから生まれているにすぎないのだ。
ワーム=セコ釣りと呼ばれた酷い時代も
バス釣りの世界では、ワーム類を使った釣りそのものが「そんなものは餌」「邪道」「セコ釣り」と非難されていた時代すらある。ここまでくると、さすがに苦しい。
そもそも「ワーム類が餌のように見える」というのは、人間から見た主観的な意見でしかなく、魚がすべてのワーム類を餌として認識しているとは限らない。逆にハードルアーなら魚が餌として認識しないという根拠もない。
つまりは、この手の批判も主観的な意見や感情に引っ張られた誤ったものでしかないということだ。
「セコ釣り」ではなく「ロジカルフィッシング」である
賢い方はもうお察しの通り、世間一般に「セコ釣り」と呼ばれる釣り方は、単に釣果を重視した、合理性を貫いた釣り方に過ぎない。つまり厳密に言えば、「セコ釣り」というより「ロジカルフィッシング (合理的な釣り)」なのである。
そもそも「セコ釣り」という言葉が広く浸透したきっかけは、1990年代後期に常吉リグ(ダウンショットリグ)を広めた村上晴彦氏が、自身の「合理性を貫いた釣り方」を自虐的に表現したのがはじまりであり、他人を批判するためではない。
村上氏が「セコ釣り」と呼んだ自身の釣法も、小バスすら釣るのが難しかった当時の超ハイプレッシャーな琵琶湖等を攻略するために生まれていったものであり、必要があったからこそ生まれた釣法である。
つまり、セコ釣りと呼ばれるロジカルフィッシングは、必要があるからこそ生まれ存在しているものである。程度の違いはあっても、釣るために合理性を求めることはどんな釣り人でもやっている事であり、非人道的な行為でない限りは、合理性を追求した釣りをする事は悪いことではない。
釣りは平等に楽しめるべきである
セコ釣り批判をする者たちの多くは、何かしらこだわりのスタイルを持って釣りをしている事が多い。
しかし、バス釣りにおけるトップ縛りにしても、エリアトラウトのスプーン縛りにしても、そういった特定の手法にこだわった釣り方というものは、あえて非合理的・非効率的な釣り方を楽しむという、コアな人間のする事である。
しかしながら世の中には、気軽に"釣れることを楽しみたい"というライトな層もいるのだ。そんな方たちが気軽に釣りを楽しめる、合理的で効率的な釣り方があっていいはずであり、それを楽しむ人がいてもいいはずだ。
中にはセコ釣り批判をする大御所アングラーもいらっしゃるようだが、釣りは皆が平等に楽しめるものであるべきではないだろうか。